今日の聖書箇所前半は、洗礼者ヨハネの逮捕の記事です。主イエスが洗礼を受けたのは、ヨハネ逮捕よりも前の出来事ですから、ここでは明らかに、時間的な順序が逆転しています。事柄の順序(道備えをする洗礼者ヨハネの逮捕・活動の後で、主イエスの宣教がはじまる)に合わせて、順序を入れ換えたのでしょう。
まず、18~20節です。洗礼者ヨハネは悪事を働いて投獄されたのではありません。権力者に都合が悪いから投獄されました。これは、とても残念なことですが、現代においても世界中で起こっていることです。権力をもっている方々も私達庶民も法のもとに平等であることが民主主義の前提ですが、まだそうはなっていません。
そしてこうして、ヨハネが活動できなくなって、主イエスの宣教活動がはじまります。時系列としては、ヨハネの逮捕よりも前ですが、主イエスの洗礼が描かれます。後半、21・22節です。三つのことに注目しましょう。祈り、聖霊、そして天からの声です。
まず祈りです。ルカによる福音書は、節目ごとに主イエスの祈りを描き、またよく祈っておられた姿を描きます。私達の頼りない小さな祈りは、この主イエスの祈りに包まれて支えられて、はじめて神に届く祈りです。
第二に、ここでも主イエスの祈りに応えるようにして、聖霊が働きます。「天が開け」「鳩のように目に見える姿で」、です。
そして最後に、天から声が聞こえます。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。私達はどうあることを目指して生きるのでしょうか。何よりも、神の御心に適う者になること(であること)ではないでしょうか。そして私達は自分の現実が、この理想とはかけ離れていることに嘆きます。「御心に適う」のは、ただ主イエスお一人であって、私達には不可能です。しかし聖霊が働いて、主イエスの恵みに包まれて、私達は御心に適う群れ、また一人ひとりでありうるのです。