今日は平和聖日です。そのために、講解説教をお休みして、同じルカ福音書の中からこの有名な「善いサマリア人」のたとえを選びました。平和は一人では成り立ちません。人々がいて、その中に平和は成り立ちます。私が大学生の頃には、「平和学」がはやりました。学部を横断して、様々な先生が平和について語りました。その中で、平和の五段階というのも聞きました。単に戦争がない、和平のような段階から、もはや争いの起こりようがない完全平和までが語られました。
 今日この聖書箇所を選んだのは、平和の基礎・根拠は愛だからです。最初の問答で、律法学者は、律法そのものを神への愛と人への愛に集約します。それは主イエスもなさったことであり、正しいことです。当時あまりにも律法が煩雑に・複雑になってしまっていたので、こういう議論は、ユダヤ教でよく行われていたようです。25~28節です。
 問題なのは、その後の、「正当化しようと」したことです。29節です。ここで、彼が何をしてしまったのか、何が問題であったのかが、はっきりと現れています。彼は、「隣人とは誰であるか」を問いました。それに対して、「善いサマリア人」のたとえを語った主イエスが問うのは、「だれが隣人になったか」です。36節です。
 現代は、分断の時代といわれ、世界中に様々な分断があります。その中で、例えば戦争をすると残念ながら多くの人は、「敵」の命のことを考えません。「隣人とは誰か」と隣人の範囲をきめようとすることは、この分断を広げていくだけです。だから主イエスは、隣人になることを求めます。隣人の範囲を確定するのではなくて、実際に隣人が必要な方の隣人になることが大切です。
 しかし私達の愛はいつも限界があります(ローマ13章8節参照)。だから本当の意味で隣人になられたのは、自分の命さえも捨てた主イエスだけであるのかもしれまません。それでも私達は、信仰において、せめて自分のできる限り、隣人になろうとする生き方を志します。