今日の聖書箇所は、唯一主イエスの少年時代のエピソードを描くものです。前回お話ししましたように、福音書は伝記ではありません。だからマルコやヨハネではいきなり福音の話です。またマタイも誕生前後のことだけを描きます。十二歳の少年イエスを描くのはこのルカによる福音書だけです。

 41・42節からです。一番厳格に律法を行うのであれば、年に三回エルサレムに詣でることになります。しかしガリラヤは距離があるので、彼らは年に一度一番大きなお祭りである過越祭は、エルサレムに行きました。このとき、主イエスは12歳でした。現代においては、十二歳と言いますと子どもです。しかしかつては日本でも十代前半で元服でしたし、もう既に奉公に出ている年齢でもあります。

 主イエスを両親は帰り道に見失います。43~45節です。これには、時代的な背景があります。男性と女性は別々に旅をしました。子どもは女性の集団と共に移動します。主イエスの十二歳という年齢は、女性グループか男性グループか微妙です。だから、両親共に、主イエスは向こうのグループにいると思い込んでいたのでしょう。ところが日が暮れて家族が合流する時に、主イエスがおられないことに気が付きます。両親は主イエスを探しながら、エルサレムへ戻ります。一日分の行程をもっと時間をかけて戻ったことでしょう。

 そして主イエスを見つけ、主イエスとの間に対話があります。46~49節です。子どもを見失った両親が見つけた時の対応として、自然なものです。私達は主イエスがどなたであるか、神の子であることを知っていますから、主イエスの仰ることが分かります。

 しかし両親はまだ分かりません。最期、50~52節です。ここでも母マリアは、(羊飼いの時と同様に)心に納めます。恐らくことあるごとに思い巡らしていたことでしょう。私達も最も古い主の言葉を心に留めましょう。