今日の聖書箇所には、安息日の出来事が二つ描かれています。同じ日ではなくて、別々の日です。
一つ目は、弟子たちが麦の穂を摘んで手でもんで食べた話です。1~5節です。当時の感覚では、これは盗みの犯罪ではありません。ただ、安息日に収穫と脱穀をした、働いたのが安息日の規定に反する、罪だというのがファリサイ派の人々の主張です。
安息日は本来は土曜日です。神が六日間で世界をお造りになり、最後に一日休息されたことからきています。しかしそれをキリスト教会は、週のはじめの日、日曜日に移しました。主が復活なさった日だからです。ダビデの話は、少し無理があるように思います。が大切なことは、「安息日の主」だと宣言しておられることです。事細かに定められてしまった安息日規定に対して、主イエスは、安息日の主だと宣言することで、大切なのは細かい規則ではなくて、本来の意味だと仰います。
安息日は、出エジプト23章をみれば分かりますように、自分たちだけが休めばよいという日ではありません。家畜や寄留の異邦人もそこには含まれています。そのことを大切にすると、二つ目の出来事、手の萎えた人の癒しの意味も分かってくるのではないでしょうか。6~11節です。一番賢いやり方は、夕方には安息日が終るから、そうしたら直してあげようと、この人に約束することでした。しかしそれでは、安息日の喜び・祝いをこの人と共にすることはできない。だから主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の反発を承知の上で、この人が共に喜ぶことができるように癒したのでありましょう。彼らの怒り狂う姿(11節)に彼らの罪がはっきり現れています。