今日の聖書箇所は、とても素直に前回の箇所に繋がっています。前回の「目を覚ましている僕」の例えを聞いて、ペトロが問うことからはじまります。41節です。主イエスはこの問いにまっすぐに答えてはおられません。もう一つの似たお話をなさいます。42~47節です。今度は、僕ではなくて、僕の上に立てる管理人の話です。よい管理人は、主人に命じられた通り、忠実に働きます。しかし悪い管理人は、主人の帰りは遅れると重い、悪いことをします。まるで自分が主人であるかのように振る舞います。僕たちを殴っ11たりします。また、酔ったりします。


 恐らく一番弟子のペトロの問いなので、直接は答えないまでも、ただの僕ではなくて、上に立つ僕の心得を語ってくださったのでしょう。上に立つ僕は、いわば、多く与えられた者です。だからより多くの責任がそこにはあります。


 多く与えられることは、確かに大きな恵みです。しかし残念ながら、それをひねくれて捉える者もいます。例えば、信仰のない者と異なり、信仰者は多くを与えられています。ところが、信仰者になると礼拝をしたり献金をしたり、色々としなければならないことができて不自由だ、だから一番お得なのは、死ぬ直前に信仰者になることだという意見です。全く逆です。信仰を生きることができるのは、今既に大きな恵みです。それが分からないと、こういう誤解をします。


 あるカトリックの信者で作家のことが、洗礼を受けた後で、礼拝に参加することが義務ではなくて喜びになった、と、語りました。洗礼を受ける前は、救われるために礼拝に参加する義務を感じていた。けれども、洗礼を受けて神の国に受け入れられてからは、礼拝することが喜びだと分かるようになったというのです。


 牧師や役員になることもそうです。確かに一般の信徒の方よりも責任は重いです。けれどもそれは大きな恵みがまずあって、それに伴うものです。新しい一週間、多く与えられたことを喜びつつ歩みましょう。