信仰のない時代(よこしまな時代)とはどんな時代でしょう。今日の聖書箇所では、主イエスが嘆いておられます。今日の聖書箇所終わりの方、41~43節前半です。この箇所での奇跡の出来事は、一人息子の癒しです。父親はもちろん、群衆は皆、神の偉大さに心を打たれます。主イエスは、残してきた九人の弟子たちが癒せなかったことに対して、信仰のない時代と仰います。そしてこの九人の弟子たちだけではなくて、時代の全体が「信仰のない時代」だと仰います。確かにそうです。信仰があれば、主イエスが十字架に死ななければならないという出来事も起きなかったはずです。
今日の聖書箇所は、山上の変貌の直後、翌日のことです。主イエスと主だった三人の弟子たちが山からおりてくると、残りの九人の弟子たちと大勢の群衆が出迎えました。大声をあげて主イエスの注意を引きつけた人がいます。37~40節です。彼の必死の叫びが主イエスに届いて、息子は癒されます。恐らく大切なことは、癒しそのものではなくて、彼の叫びが主イエスに(そして神に)届いたことでしょう。
私達の祈り・叫びは、どのようにして主イエスに届くのでしょう。当時と同じように悪い時代、信仰のないこの時代に、本来この時代の子らである私達の祈りが聞かれるはずもありません。しかし主イエスが十字架に死んで復活なさり、私達と神との間を取り結んでくださいました。
最後、43節後半~45節です。このときに弟子たちに分からなかった言葉が、主イエスの復活の後、分かるようになります。そしてこの事実があるから、私達の祈り・叫びは、その結果は様々ですが、神に届く言葉となります。