今日の聖書箇所では弟子たち(使徒たち)が、主イエスに「信仰を増してください」とお願いします。5・6節です。なぜそんなことを願ったのでしょう。その前の対話にその理由が示されています。
 1~4節です。一日に七回でも赦しなさいといいます。この「赦し」というのは、かなり難しいことのようです。私達は、教会生活・信仰生活を送る中で、赦すことの大切さを学んできました。私達は世間一般の方々よりも寛容で赦すことを知っています。赦さない限り、そのことに縛られ続けます。だから、相手のためばかりでなくて、自分のためにも赦すことは大切です。


 それでも主イエスの仰ることは、極端ではないでしょうか。一日に七回というのは、自分のこととして想像してみれば、無理なことが求められています。だから弟子たちは、「もっと信仰を」と願います。信仰だけが私達を正しく赦しへと導くからです。しかし主イエスは、からし種一粒ほどの信仰があれば…と答えます。私達はまず、私達にはからし種一粒ほどの信仰さえないのだということを自覚しましょう。


 それでは弟子たち(私たち)はどうすればよいのでしょうか。7~10節です。弟子たちに信仰がない(足りない)からだめだと主イエスは仰っているのではありません。自分が与えられている信仰において、神・主イエスの求められることをしていけばよいのです。現代には奴隷制度がありませんから、少し分かりにくいかもしれません。しかし、主人の仰ることを行うのは、奴隷として当たり前のことです。悪い主人であれば、奴隷に無理難題を命じて苦しめるかもしれません。しかし主イエスはよい主人です。主イエスが命じられるならば、それと共に、命令を実行する力や機会なども与えてくださいます。大切なことは、私達が10節のように振る舞い語ることです。私達がすべきことは、赦せるかどうかに思い悩むことではありません。赦す力をも与えてくださる主イエスに信頼して生きることです。