今日は、ザアカイの物語です。主イエスはエルサレムを目指しておられ、エリコはもうエルサレムまで近い町です。ザアカイは、一目主イエスを見ようとしますが,難しい。1~3節です。彼は背が低かった。そればかりか、群衆に遮られてしまいます。彼が人望のある方であれば、人々が前へ押し出してくれるのでしょうが、徴税人であり、嫌われていたのでしょう。


 そこで彼は工夫します。4節です。すると主イエスがザアカイに声を掛けます。5節です。ザアカイはすぐにおりてきて、人々はつぶやきます。6・7節です。このつぶやきも、当時の時代状況を考えれば自然なことでしょう。


 しかしザアカイはそんなことは気にしません。8節です。実際にこんなことを行えるかどうかは分かりませんが、ザアカイは少なくともそうするつもりです。ザアカイは自分の背が低いことにコンプレックスをもっていて、それだから徴税人になって、お金儲けをしようとしたのかもしれません。しかし主イエスがきてくださることによって、彼の劣等感もコンプレックスも全てふきとんでしまいます。


 そして最後に主イエスは宣言なさいます。9・10節です。三つのことをみましょう。まず第一に、主イエスは、ザアカイ個人にではなくて、「この家に」救いが訪れた、と、宣言なさいます。日本では、救いは個人的に捉えられがちですが、新約聖書を丁寧に読むと、救いは共同体的である場合が多いです。父権性的な発想がここにもあるのだともいえますが、救いの共同体性が分かります。


 第二に、(私達が救いへと行くのではなくて)救いのほうが訪れます。救いにおいては、私達人間が主導権・イニシアディブをもつのではなくて、神・主イエスに主導権があります。


 そして第三に、失われたものは、狭い意味ではイスラエルの救いからもれそうな人々のことですが、広い意味では私達神から離れている全ての人々です。


 私達も訪れる救いに感謝と喜びをもって向き合いましょう。