今日はいよいよエルサレム入城です。入場と異なり、入城には、荘厳なイメージがあります。なぜならこの言葉には、王が城に入る時や、戦争で勝って帰って来た将軍が凱旋するようなイメージだからです。

 確かに主イエスのときにも、37・38節のような出来事はありました。しかし私達は二つの点で手放しでこの物語を喜ぶことはできないのではないでしょうか。まず第一に39節のファリサイ派の異議があります。誰もが主イエスのエルサレム入城を喜んだわけではありませんでした。更に第二に、私達は、このあとどうなっていくのか、知っています。餌さレム入城からじゅうじかまでは(教会の暦の数え方で)わずか一週間です。歓喜の声で主イエスを迎えた人々が、「殺せ」と叫びます。福音書ごとの違いについて…。その結末を私達は知っているので、素直に受け止めるのは難しいでしょう。


 しかしその前には、ろばの子のエピソードがあります。28~36節です。ちいろば先生の話は有名ですが、世々のキリスト者は、このろばや二人の弟子に自分たちを重ねて、主の言葉に生きる幸いを見出してきました。


 最後の主イエスの言葉も、私達にとって大きな励ましです。石が叫びだすより他ないほどに彼らの賛美は必然的です。私達がキリスト者として生きるならば、この世界の常識からすれば、 馬鹿らしいとしか見えないことも私達はします。教会の活動は、この世界の常識を基準にするとき、腐っていきます。たとえ愚かにみえても、ただ神の言葉だけを基準として活動していくことが大切です。この新しい会堂での私達の活動が、ただみ言葉に、それゆえイエス・キリストに従うものであり続けるように願っています。