この二つの例え(羊と銀貨、更に次の放蕩息子の例え)を並べてみると分かることは、様々なパラフレーズすることはできるとしても、やはり一番大きなテーマは、見出した者(羊飼い・女、そして天・神)の喜びです。羊はまだしも、銀貨が見出されて喜ぶということはないでしょう。


 では、私達はどの立場なのでしょう。99匹の羊や9枚の銀貨だという立場もあります。長い歴史のあるヨーロッパの教会では、そのように読んで、自分たちのファリサイ派や律法学者にも似た、傲慢の罪を問うのです。それはあながち間違った読み方とも言えないでしょう。日本の教会においてもそういう読み方はあります。


 そして徴税人や罪人と比べて、救いの喜びから遠いのは、この人々のほうだとも言えるでしょう。神の喜び、見出した者の喜び、共に食事をなさる主イエスの喜びに近いのは、主イエスと共に食事を楽しんでいる徴税人や罪人です。


 そして私達もまたこの喜びに招かれているし、この喜びを共に喜ぶとき、主イエスに似た者として、キリスト者としての歩みをなします。さあ新しい一週間、主イエスと共に主イエスに倣って、それぞれの遣わされた場所で生きましょう。