今日の聖書箇所では、洗礼者ヨハネの二人の弟子が出てきます。洗礼者ヨハネ自身は獄中にいて、主イエスのもとに来ることができません。18~20節です。このヨハネの問いについて、実際には疑問に思ったわけではないが、獄中にあって少し不安になったヨハネが確かめようとしただけだという読み方もあります。しかし私は、ヨハネは本当に疑問に思ったのだと思います。というのも、ヨハネは自分の後から来られる方(主イエス)は、水で洗礼を授ける自分と異なり、聖霊と火で洗礼を授ける(3章)と言います。更に、火で焼き払う姿を預言しました。勿論この裁きの出来事は、終末・再臨の出来事であって,「直ちに」ではないのだと読むことができます。


 しかし主イエスは、ヨハネが預言したような仕方ではなくて、ひたすら癒しつつ神の言葉を語る(裁きは起こらない)ので、疑問に感じるようになったのでしょう。21節はそのとき主イエスがなさっておられたことを語り、22・23節が主イエスの彼らへの答えです。21~23節です。主イエスは、現在の状態と終末を語るのではなくて、ただ今起こっている出来事を、そのまま、ヨハネに伝えるように、と、仰います。


 ここで特に注目したいのは、最後の言葉です。「わたしにつまずかない人は幸いである」。主イエスにつまずくとは、どういうことでしょうか。ヨハネは裁く人としての「救い主」を期待していました。しかし実際の主イエスにはそういう様子がありませんでした。もっとどうでもよいようなことで(当人にとってはどうでもよくないのでしょうが)、教会や牧師につまずいたといって、離れていく人々もいます。しかしこの救い主はどんな方なのかという点でつまずくのは根源的なつまずきでしょう。ありのままの主イエス、救い主を受け入れるのではなくて、様々な意味で自分に都合のよい救い主にして受け入れようとする、それはつまずきといってよいでしょう。殺されたヨハネの判断がどうであったかは私達には分かりません。ただ、私達は、自分の都合で主イエスの姿を変えてしまうのではなくて、繰り返し新しく示される主イエスを信じましょう。