今日の聖書箇所は、福音書の頂点とも言われる山上の変貌です。神話的な話なので、現代の私達が事実としてこのまま受け入れるのは難しいと思います。しかしこの箇所に山上の変貌の記事をおいた意図は分かります。この直前には、弟子たちのメシア(キリスト)告白と死と復活の予告があります。
それに続いて、主イエスの洗礼の時の神の宣言(3章)を繰り返す必要があったのです。主イエスこそ、神の御心に適う者です。そして洗礼のときに付け加えて語られているのは、一緒にいた三人の弟子たちに向けて、「これに聞け」と言われていることです。最後の箇所、34~36節です。
まず山上変貌の出来事自体が起こります。28~32節です。必ずしも非神話化の必要はないです。どちらに読むこともできるでしょう。
しかし私がいつも疑問に思うのは、33節のペトロです。主イエスと共にいた二人が、律法と預言者を代表するモーセとエリヤであることがなぜ分かったのでしょうか。この出来事よりも後で、主イエスが弟子たちと語らう中で告げたのであれば分かります。しかしペトロが仮小屋の話をしたときはまだ、山上の変貌の最中です。「自分でも何を言っているのか分からなかった」の中にはこのことも含まれていたのかもしれません。ペトロが、告知としての一時の出来事である山上の変貌を地上に長く止めたいと願ったことは確かでしょう。
私達にとって必要なことは、山上の変貌の出来事自体よりも、この時の神の声、「これに聞け」です。私たちは今日もなお響く主イエス・キリストの福音に、主イエス・キリストご自身に聞き続ける歩みをいたしましょう。