三回にわたって羊飼いと天使たちの記事を読みました。その最期に割礼の日にイエスと名付けられたことで、前の記事は終ります。

 今日の箇所は、エルサレムへのいわば宮詣での出来事です。イスラエルでは本来最初の男の子は神に献げます。しかし実際にそうすると社会が成り立ちません。だから長子を献げたしるしとして、羊を献げます(実際には貧しい人・庶民は鳩です)。22~24節です。


 そこへシメオンという人物が現れます。25・26節です。メシアに会うまでは決して死なないというお告げを受けていました。シメオンの年齢は全く分かりませんが、次回(再来週)のアンナと同様に、高齢の方だったのではないかと推測されています。

 次に、27~32節です。主イエスが救い主であることの他に、ここではシメオンの率直な思い、この僕を安らかに去らせてくださると語られています。ここからシメオンは死にたがっていたと思う必要はないでしょう(パウロの獄中での思い、フィリピの信徒への手紙1章21節などを参照)。両親は驚きます(不思議に思います)。33節です。

 そしてシメオンからマリアへの言葉で、今日の箇所は終ります。34・35節です。シメオンはまだ幼子とはいえ、メシアと会い、彼らを祝福します、恐らくは幼子を抱いたままで。マリアへの言葉は、このシメオンの喜びの心からすると、少し不思議なものでした。マリア自身も剣で心を刺し貫かれるというのです。既にここで、主イエスの十字架が預言されています。シメオン自身は、主イエスの十字架よりも前にこの世での命を終えますが、それでもなお、私達がたとえ終末・再臨よりも前にこの世での命を終えたとしても復活の主と共に神の国を生きることを信じて疑わないのと同じように、シメオンもまた神の国を生きるのです。