今日の聖書箇所では、二人の人物が癒されています。一人目は、重い皮膚病の人であり、二人目は中風の人です。そしてこの二つの記事の真ん中には、祈っておられる主イエスの姿が。あります。16節です。人前で祈ることは、既にその行いの報いを受けてしまっていると仰った主イエスは、一人人里離れた所に退いて祈ります。それは、主イエスの語る言葉も、主イエスの癒しも、主イエスから独自に出たものではなくて、ただ父なる神との交わりによって起きたのだということを主イエスがよく分かっておられたということでしょう。
この当時、重い皮膚病は、汚れとして捉えられていました。だから主イエスは、この人によりそうようにして、「よろしい。清くなれ。」(13節)と仰いました。しかし主イエスが因果応報の考え方(罪によって病やけがれが起こるというもの)とは一線を画してきたことを私達はよく知っているはずです(生まれつき目の見えない人の癒しなど)。むしろ前回のペトロや次回のレビ、更には自分たちの罪に全く気づかないで批判ばかりするファリサイ派や律法の教師たちも含めて、神の子である主イエスからみれば、皆、罪人です。だからこそ、32節のように語ります。
中風の人の癒しでは、三つのことに注目します。まず第一に、主イエスが見られたのは、この人を連れてきた人々の「信仰」だということです。屋根を破ってやってくるということは、現代と建物の構造が異なりますが、すごいことではあるでしょう。しかし主イエスは、彼らの行動ではなくて、信仰をみます。主イエスは、主イエスならばこの中風の人を癒すことができると信じました。彼らの大胆な行動ではなくて、まっすぐな信仰を主イエスは見ました。第二に、中風の人を癒したのはおまけであって、「あなたの罪は赦された」と宣言することが中心でした。教会がキリストの体であるならば、罪の許しが必要です。そして第三に、人々の反応です。26節です。この驚き・賛美が大切です。